増上寺 ~徳川将軍家墓所~

徳川将軍のお墓は日光東照宮・輪王寺・増上寺・寛永寺・谷中霊園に分散していま。 

 ここ増上寺に眠るのは6人の将軍とその正室・側室・家族達です。 増上寺に眠るのは2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14代家茂公です。残りは寛永寺に6人、最後の将軍慶喜公は谷中霊園に神式で眠られています。初代家康は日光東照宮、3代家光公は家康公のお隣の輪王寺に祀られています。 旧徳川霊廟は惜しくも戦時中に空襲で焼失し、昭和33年には発掘調査の上に現在の場所に改葬されました。


 桜・東京タワー・増上寺の奇跡の1枚。東京タワーはスカイツリーができ主な役割は終えましたが、昭和レトロな建築物で絵になります。


 この日はお釈迦様の誕生日で花まつり(灌仏会)が開催されていました。後方の仏像は誕生仏で右手で天を指さし、左手で地上を指さして、「天上天下唯我独尊」と言っている場面です。 私はこのポーズをまねしてみましたが、50肩で右腕が上がらず断念しました。


前方の花の台座には小ぶりの誕生仏が置かれ、甘茶をかけて参拝します。 甘茶をかけられて気持ちよさそうなお釈迦様・・花は式典後にお持ち帰りができて持ち帰り花風呂を楽しみました。また参拝者には甘茶のサービスもありました。


 徳川家の霊廟に行く途中にある風車とお地蔵様の風景・・風で桜の花びらがお釈迦様の誕生日を祝うかのように降り注いでいました。


 2代秀忠公(1579~1632) 秀忠公はどうしても関ケ原の本戦に遅刻して間に合わなかった事が歴史小説や大河ドラマで取り上げられ暗愚な将軍のイメージがついて回ります。東海道を下る本軍とは別動隊で中山道から進軍し、戦国に名高い真田昌幸・信繁と砥石城や上田城で戦います。 10倍以上の兵力を持ちながら奇襲作戦にまんまとはまります。その後関ケ原を目指しますが悪天候でこれまた遅れて間に合わず、次期将軍としての資質を問われるまでになります。 ただ家康が秀忠を将軍にしたのは、武勇ではなく人柄であったと思われます。 長男 松平信康(正妻の子)は内通したとして信長に咎められ自刃 次男 秀康(奥女中の子)は秀吉の養子から結城氏の養子へ  三男 秀忠(側室の子)は家康のあとを継ぎ発展・存続させる 四男 忠吉(同じ側室の子)は武勇にすぐれ関ケ原の戦いで功績をあげるも若くして死去 以上、家康の後継者候補は数奇な運命をたどります。結果的に秀忠が比較的長生きして徳川家の長期政権をゆるぎないものにした事は家康の目に狂いはありませんでした。


 6代 家宣公(1662~1712) 甲府藩主の徳川綱重の長男ですが女中の子(長昌院)であったが為に家臣の家に預けられていました。このまま日陰の人生を送るはずだった家宣に転機が訪れたのは男の子に恵まれなかった綱重に後継者として迎えられてからでした。 4代家綱が重体となり5代将軍の候補にもなりましたが綱吉に奪われました。 ここでまた幸運が巡って来て綱吉も男子ができずに家宣は綱吉の養子となりました。在籍中は綱吉の側近の柳沢吉保の辞職後に新井白石や間部詮房を登用している。


 7代 家継公(1709~1716) 徳川家宣の四男、家宣の子はことごとく早世し残されたのは家継だけだった。さすがにこの年齢で政務をとるのは不可能で先の新井白石や間部詮房が主導した。 徳川家のスキャンダル江島生島事件は家継の将軍在籍中に起こり、家宣の正妻天英院が側室で家継の生母である月光院を追い詰める醜い争いとなりました。 江島生島事件 江島は月光院(家継の生母で家宣の側室)の代参で家宣の墓参りに行き、帰りに歌舞伎を見て役者を茶屋に招いて宴会をし大奥の門限に遅れた。評定所が審理する事になり、結果生島は遠島、芝居小屋は廃座、江島は高遠藩預かり、その他多数の処罰者を出しました。 


 9代 家重公(1712~1761) 紀州藩 徳川吉宗の嫡男、言語が不明瞭で障害があったが吉宗の後見で征夷大将軍となる 


 12代 家慶公(1793~1853) 1853年と言えばペリーが浦賀にやってきた年で、幕末の動乱には直接介入していないが、薩摩のお由羅騒動に介入して島津斉興を隠居させて島津斉彬を当主に引き立てている。 家慶の時代は水野忠邦を重用し天保の改革・蛮社の獄を断行している。 水野の改革で浮世絵も少なからず影響を受け1843~1847年の間は浮世絵の検閲が極め印から名主印に変更され年代が特定できます。役者絵や遊女の錦絵も禁止されます。 家慶の後継争いが熾烈になり南紀派・一橋派に分かれて抗争を繰り広げた。この時点では薩摩の島津斉彬は公武合体をもくろみ倒幕は考えていなかった。 阿部正弘は開明的な政治家で外様でも庶民でも意見を取り入れました。


 14代 家茂公(1846~1866) 井伊直弼や南紀派の支持を受けて14代征夷大将軍になりました。井伊直弼が有村次左衛門や水戸藩士に桜田門外で暗殺された後に形勢は逆転します。幕府は皇女和宮の降嫁を打開策とし、公武合体策に転換していきます。 1863年上洛した家茂は攘夷を確約させられます。第一次長州征伐を敢行し勝利し、更に第二次長州征伐の戦争中に大坂城で病死した。20歳という若さで病没し、更には追いかけるように孝明天皇までもが病死する。 阿部正弘、島津斉彬、徳川家茂、孝明天皇、皆大事な局面で亡くなっています。このうち何人かは対立するグループから毒殺されたのではないかと思います。


 皇女和宮(1846~1877) 宝塔は青銅製で菊の御紋が刻まれています。歴代将軍の墓に比べてもかなり立派です 和宮様の降嫁は幕府から見れば公武合体の切り札で、孝明天皇から見たら攘夷の切り札で思惑がずれています。 大河ドラマ篤姫では篤姫が和宮を嫁姑のようにいびります。慣れない武家暮らしですが、和宮は夫の家茂公とは気が会ったようで思いのほか仲良く暮らします。家茂が長州征伐で大坂城に出向く際に西陣織をお土産に頼みました。家茂は大坂城で病で亡くなり江戸へは西陣織が届きました。 ~空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ~ 15代将軍となった慶喜公は形勢を逆転しようと大政奉還しますが、王政復古の大号令というクーデターにあいます。戊辰戦争が開始されで敗北するや大坂城から部下を見捨てて江戸に逃げ寛永寺で謹慎。 江戸城でのツートップとなった篤姫と和宮は天から与えられた歴史的な仕事を開始します。 篤姫は官軍側へ、和宮は朝廷側へそれぞれ徳川家の存続や慶喜の助命を嘆願して勝海舟と西郷隆盛の会談を経て江戸城無血開城という離れ業をやってのけます。 大河ドラマの終わりは明治になり、勝海舟邸で勝と篤姫、和宮で昼食をとりました。篤姫と和宮がどちらも自分がごはんをよそうと譲らず、見かねた勝海舟がおたがいごはんをよそえばよいと進言ししゃもじをもうひとつ渡す。徳川家を存続させるという同じ使命を持ち戦った二人で友情が芽生えていました。和宮は箱根で療養中に亡くなりました。 

大江戸お墓巡り図鑑

武将や浮世絵師、幕末の志士などを中心にお墓巡りをテーマに歴史散歩をします。歴史の教科書を捨て街へ出よう! ご連絡はコメント欄よりお願いします。

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