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源平合戦と須磨寺

私が以前門司に住んでいたころ近所には平家滅亡に関する史跡が数多くありました。子供が小さいころ散歩コースには大積天疫神社、通称河童神社があり境内には河童の像が多数鎮座していました。平家が壇ノ浦で敗れた後、海で亡くなった男性は平家蟹になり、女性は河童に身を変えたと言い伝えがあります。


また門司港レトロから海沿いにいけば甲宗八幡宮があり、ここには平清盛の四男、平知盛のお墓があります。知盛のアイコンは碇で、源氏に捕らわれて晒し物になるよりは自害する際に碇を担ぎ入水しました。関門海峡を渡れば耳なし芳一で有名な赤間神宮もあります。


今回は平家が滅亡した壇ノ浦ではなく最終決戦の序章となる一の谷合戦での悲劇をご紹介します。神戸のJR須磨駅より北へ徒歩7分くらいで須磨寺があり、ここには平敦盛の首塚があります。

須磨寺の境内にある一の谷合戦時の一場面、熊谷直実が船に戻ろうとする敵将を見つけて呼び止めるところ。大将首と思しき人物は実は平清盛の甥、平敦盛であった。


須磨寺は一の谷合戦時には源義経の陣地となりました。海側に陣を構えた平家に対して山が海にせまった地形を利用して義経は崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけます。不意を突かれた平家は海へと逃れました。熊谷直実は元は平家の一武将でしたが源氏へ寝返り功をあせっていました。幸か不幸か波打ち際に逃げ遅れた立派な鎧兜を身に着けた若武者に遭遇しました。


「敵に後ろを見せるは卑怯なり。返せ返せ!」と呼びかけるとその若武者はくるりと振り返り一騎打ちを挑みます。百戦錬磨の熊谷直実と高貴な少年では勝負にならずあっというまに組み伏せます、自分の息子程の年齢の美少年で一瞬首を取るのを躊躇します。


「あなたの名前をお聞かせ下さい」と直実が尋ねると逆に「あなたはどなたですか?」と尋ねられ「熊谷直実と申します」と答えます。敦盛は「あなたに名乗るのはよしましょう。あなたにとって私は十分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く打ちなさい!」直実はこの若者を助けたいと思いましたが、後ろには梶原景時らの軍勢が近づいていて助けるのは不可能と判断するや「同じ事なら、直実が手にかけて後のご供養をお約束します」と泣きながら首を打ち取ります。


・・・直実は鎧で首を包もうとすると腰に一本の笛が挿してあるのに気づきます。

今朝平家の陣から聞こえてきた綺麗な音色に源氏の武将は皆感動しました。その笛を吹いていたのはまさにこの若者でした。


熊谷直実作、平敦盛像


平敦盛所持 青葉の笛(右)高麗笛(左)

源義経の陣地であった須磨寺に首と笛を持ち帰った直実は太子堂前の池で首を洗いました。

大きな松の木に腰を掛ける義経が首実検で「平清盛の甥で平敦盛である」と言いこの人物が誰であるか判明しました。享年17歳の敦盛の笛を見て涙を見せない者はおらずながく語り継がれました。


写真上部の松の木・・「義経腰掛の松」 下部の池・・「敦盛首洗いの池」


平敦盛の首塚

平敦盛卿のお首を埋葬す、敦盛卿は首と胴とを別々に埋葬せしものにて胴塚は其討死の場所たる一の谷にあり(説明文より)

一の谷の合戦で敦盛を討ち取った直実は無常を感じて出家して名を蓮生と改める。


赤旗名号(法然上人筆)

敦盛を討った直実は、殺しあわなければならない武士の世に無常を感じ出家します。浄土宗宗祖である法然上人の弟子となり名を蓮生(れんしょう)と改めます。赤旗名号は直実が敦盛の菩提を祈るため、法然上人に平家の赤旗に「南無阿弥陀仏」とかいて頂いたものです。

伊藤若冲の制作した石仏があり、若冲のお墓もあります。

若冲は変わり者で京都の錦小路の青物問屋の枡屋の長男で跡継ぎでした。

場所貸し業で何もしなくても収入があった、商売には熱心ではなく生涯独身で家督を弟にゆずり隠居し有名な動植綵絵を描き釈迦三尊像を相国寺に寄贈する。

動植綵絵と釈迦三尊像は現存していて相国寺の美術館で展示されたときは大盛況でした。

すらりと並んだ動植綵絵の中央に釈迦三尊像が三幅かけられ、息をのむような美しさでした。

動植綵絵は相国寺から明治天皇へ献納されました。この時の下賜金1万円で明治の廃仏毀釈の困窮した相国寺を救いました。

皇室御物になった為に人の目にはふれにくくなりましが今でも色あせずきれいに保管されていて、献納は相国寺にとっても絵にとっても良いことだったと言えます。


伊藤若冲(1716‐1800)

斗米庵若冲居士墓と読めます。晩年困窮し絵を一斗の米で売った。

相国寺は永大供養を願い生前たてたお墓で、こちらは亡くなった後のお墓です。


若冲の絵は筋目書きやたらし込み、裏彩色等の超絶技法を駆使した作品や席画のように墨の濃淡だけで一気に描いた作品があります。

例外的には升目書きがあり、デフォルメしたユーモアのある漫画的な作品もあります。

この石仏は3Dと2Dの中間くらいの摩崖仏的な作品です、若冲がどこまで関与しているかは分かりませんが、ジャンルとしてはデフォルメしたかわいい作品にあたります。

葛飾北斎(1760-1849)のお墓は台東区元浅草の誓教寺に現存しています。

誓教寺にて富士山の方向を向く北斎さんと記念写真、ここ誓教寺は画狂老人卍墓があります。明治の浮世絵研究の先駆者である飯島虚心の葛飾北斎伝(鈴木重三校注・岩波文庫)を参考に解説します。飯島虚心の本は明治二十六年刊で北斎さんが亡くなってすでに40年は経ち発行されています。当時生存していた北斎さんの縁者・関係者から聞き書きしてますので北斎さんの奇行ばかり目立ちますが大変重要な資料です。写真はお寺の方に許可を取っています。

全体像です、覆い堂で守られていて上部には「北斎翁墓」のプレートがあります。通常は向かって右側面の扉は開いていないのですが開けて見せてもらいました。何があるかと言いますと、北斎さんの辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれています。また左側面には北斎さん・奥さん・娘さんの法名と亡くなった日が彫られています。

葛飾北斎伝によれば

南総院奇誉北斎信士 嘉永二巳酉歳四月十八日

性善院法屋妙授信女 文政十一戌子歳六月五日

浄運妙心信女    文政四年辛丑歳十一月十三日

祠堂金五百疋 白井多知女

ここには阿栄さんではなく別の娘さんが眠っています。先日NHKで宮崎あおい主演で「眩くらら」がありましたがよくできたドラマで葛飾應為(阿栄)の晩年は親戚・縁者をたらいまわしになったあげく行方がわからなくなりました。


正面には「画狂老人卍墓」と大書きしてあり下部の楚石には生家の川村氏が刻まれています。(写真では右下のお供え物で隠れています。)北斎さんは葛飾郡本所割下水で生まれ幼名は川村時太郎です。その後、 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となりそののち、実子に家督を譲り中島家を出ます。

このお墓ですが誰が建てたのかははっきりしていません。亡くなってすぐ建てられたのではなく当初は同寺の仏清墓に父と一緒に葬られていてその後に改葬されたそうです。

この墓を建立したと思われる人物は北斎次男で他家に養子に出した加瀬崎十郎、その娘の白井多知、またはひ孫(崎十郎の孫)の加瀬昶次郎、この墓はいずれにしても北斎さんを誇りに思う子孫が建立したのはまちがいありません。


右横の扉を開けてみた写真です、非常にわかりにくいのですが、辞世の句が書いてあります。ひと魂でゆくきさんじや夏の原、拓本がほしいくらいです。浅草聖天町の長屋で阿栄さんに看取られ亡くなった北斎さんの命日も近く、ここ誓教寺では4月18に北斎忌が開催されます。法要と誓教寺所蔵の北斎さんの作品が公開されるそうですが遠方なのでいけず残念です。


飯島虚心の北斎伝より葬送の様子

翁死に臨み、大息し「天我をして十年の命を長ふせしめば」と言い、暫くして更に天我をして「五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と言い終りて死す。

実に四月十八日なり。歳九十。浅草の誓教寺に葬る。翁の死するや、門人および旧友等、各出金して、葬式の礼を行いたり。棺槨などは粗製のものなりしが、見送りの人々の中には、鎗、挟み箱など、もたせたる士もありて、凡百人程にて、誓教寺に赴きたり。古来裏店より鎗箱など持たせて、見送りし葬礼はかってこれなきこととて、近隣の者共、大いに羨みたり。また翁が死せし時、門人の他に、柳亭種員、四方梅彦など、最もよく後事を担当し、周旋いたらざるなし。

次回も北斎伝から引用します・・。


日光東照宮は徳川家康を神格化した霊廟で東照大権現として祀られている。


徳川家康は1616年6月1日に駿府(静岡県)で死去しました。当初は久能山東照宮に葬られましたが日光に改葬されました。現在見られる社殿は徳川家光により大幅に改造されている。



黒田長政公により寄進された高さ9mの日本最大の石鳥居、福岡県糸島市の可也山から切り出した。外様大名の中では親密な関係であった事がわかります。


1650年に小浜藩主、酒井忠勝が寄進した五重塔。後に焼失して1818年に再建されている。

表門の仁王像

中央の建物、上神庫には狩野探幽の象の彫刻があります。


神厩舎(しんきゅうしゃ)には人の一生を表すた8枚の彫刻が飾られている。特に有名なのは「見ざる・言わざる・聞かざる」


神厩舎の全貌


御水屋・サイフォンの原理で山から水を汲み上げています。軒下上部には水の神様、飛龍が描かれています


伊達政宗公が奉納した南蛮鉄灯籠。ポルトガルから鉄を輸入して制作されました、左下あたりに藤原朝臣政宗と彫られています。伊達政宗公の灯籠の場所取りは一番目立つ所でしかも鉄製です、さすが政宗公ですね。


経蔵(輪蔵)・経典を収納しておくための蔵で、かっては一切経(仏教経典)が収納されていました。一見2階建てに見えますが、上の部分は裳階(もこし)で装飾や雨除けの効果があります。神式と仏式が混合された神仏習合も東照宮の魅力です。

豪華絢爛な陽明門、修復工事も終わり以前はくすんだような色でしたが金ぴかになっています。

本社・拝殿と本殿で1万石以下の大名は上殿できなかった。一般の方もここまでは参拝できた。

本社の入り口上部には虎の彫刻が2体あります。南禅寺の水呑みの虎で見られるように江戸時代は虎の雌は豹と思われていて、向かって右は豹になっています。写真撮影が可能な場所だけ簡単に紹介しましたが他にもたくさん見どころはあります。本地堂の鳴龍は天井画の龍の下の特定の場所で拍子木をならすとキーンと龍が鳴いているように響きます。また奥宮には家康公の分骨された墓所があります。

今回行ったのは3度目(?)ですが、スギ花粉が舞い散る中行き花粉症が最悪な状態になりました。


お賽銭入れのようですが覆っている銅板屋根の上に埃のように溜まっているのは花粉です。

明治維新、勤王の志士に絶大な影響を与えた武将。

楠木正成は後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府を打倒する。しかし足利尊氏が背き

一旦は九州に追いやるも大宰府で戦力を立て直した尊氏に湊川の戦いにて敗北しました。

ここ湊川神社は自決した場所と墓地が同じ境内の中にあります。



石柱で囲いがしてあり、一般の参拝者はここから見ますが旬節地は遠目でしか見えません。

しかし試しに聞いてみると神職の方の付き添いで中で見せていただけるとの事で社務所でお願いしました。

なんの変哲もない藪のようですがここで敗北した楠木正成・正季(まさすえ)等々一族が互いに刺し違えて戦死しました。結界が張っていて楠木正成がそこにいるかのような空気が漂っています。



大楠公御墓所、この中に楠木正成のお墓があります。大名から寄進された古い灯籠が見えます。

奥に少し見えるのが楠公のお墓です。


贈正三位と彫られています、明治に正一位を贈られたような気がしますが、位階には詳しくないのでここまでにしておきます。


お賽銭をいれて参拝しました。この奥にお墓があります。


水戸光圀公が助さんに命じて建立させ表書は光圀公が自ら書きました。

嗚呼忠君楠子之墓・・スマホ写真で手ぶれと倍率が低いので上手く撮れません。そろそろデジカメを買わなくては・・


裏書きの拓本、幕末に吉田松陰は湊川を度々訪れて拓本を買い求め松下村塾塾生に教えを叩き込みました。

官兵衛の墓はなぜ赤い?人を呪わば穴二つ城井鎮房の祟り


黒田官兵衛・長政親子は全国的に有名で人気がありますが、それ以降の黒田家は今一つ地元での愛着がありません。ひとつは黒田家が幕末に第二次長州征伐というタイミングで幕府からの詮議を受けて加藤司書や月形潜蔵・勤皇派を大量に処刑しました。

幕府が第二次長州征伐を前に長州に肩入れしている福岡藩を叱責した為と、加藤司書が建築を指揮する犬鳴御別館が藩主を幽閉する為に作られたと密告され藩主の黒田長溥が激怒しました。

その後薩長が同盟し情勢が変わり今度は佐幕派3人の家老を処刑して、戊辰戦争の頃には新政府軍に兵を出すもろくな人材がいなくなっていました。

それに加えて明治になり大規模な偽札事件を起こし、福岡藩の高官がズラリと関与していて藩知事の黒田長知にまで科が及び黒田家は閉門し知事を罷免されました。福岡藩は正式には廃藩置県までもたず、改易処分と同じ扱いになっています。


戦国時代に話は戻りますが城井谷城の城井鎮房は秀吉の九州征伐で帰順するも九州征伐にはさしたる貢献はしませんでした。息子の朝房が先鋒隊で活躍し秀吉が恩賞で伊予国へ移封の朱印状を出します。ここで移封を受け入れれば大大名への道も開けたかもしれないのに代々続いた領地に固執して断ります。


ここで新たな鎮房の領地を含む豊前の領主になった黒田官兵衛と対立します。官兵衛が肥後の一揆の鎮圧の応援にでかけているのを見て、地元でも一揆がおこり、長政が鎮圧する隙を見て鎮房は城井谷城を奪い返す。


黒田長政は籠城した鎮房を攻撃するも撃退される。様々な工作のうえ和議するも官兵衛から城井家抹殺の秘策を授けられる、鎮房を娘と長政の婚姻話で中津城へおびきだして暗殺する。


城井鎮房とともに来た家臣達は控えていた合元寺で一網打尽に殺害されます、息子の朝房は黒田官兵衛が一揆の鎮圧と称して連れ出し惨殺、娘の鶴姫は磔にする。

今日も残る合元寺の赤壁はいくら白く塗り替えても赤く染まるので赤く塗り替えたそうです。話はこれで終わらず、その後鎮房の亡霊が中津城に出没し長政を祟ります。


黒田如水(1546-1604)

黒田如水お墓ですが他のお墓は花崗岩で作られています、如水のお墓だけは安山岩質凝灰岩で作られています。文字が赤いのは岩に文字を彫り、朱漆の塗料を塗った後に金箔を貼るのですが、金箔が剥げてこのように赤い文字になったのではないかと言われています。

もしかしたら赤壁の伝説のようにいくら金箔を貼りなおしても赤い色がにじみ出てくるので赤壁のように全体を塗ると郵便ポストと間違われるので赤いままにしているのかもしれません。信じるか信じないかはあなたしだいです。



官兵衛のお墓は創建当初のもので碑には聖福寺第百九世住持の景轍玄蘇(けいてつげんそ)

の撰文が刻まれています。官兵衛の一生の出来事が石柱の四面にズラリと書かれています。

写真の部分は明智光秀の本能寺の変から中国大返し、山崎の戦いの下りが書いてあります。

漢字ばかりですが、単語は読みやすいので読みつないでいくと歴史に詳しい人なら何が書いてあるかわかるので双眼鏡を持っていき時間をかけて見るのをお勧めします。


黒田長政(1568-1623)

長政は官兵衛が荒木村重により有岡城に幽閉されていた頃、信長に寝返りを疑われて一人息子の長政を殺すように秀吉に命じました。

秀吉は確信があったのか竹中半兵衛とともに長政を匿います。

長政は官兵衛と違い、策士と言うよりは勇猛な武将ですが関ケ原では西軍の小早川秀秋や吉川広家を寝返らせています。

秀吉が官兵衛に与えた恩賞は12万石と働きに比べ少ないものでしたが、家康は長政に52万石与えます。

上の写真の長政のお墓は建て替えられたものですが、実は創建当初と思われるお墓の一部がここに残っています。


これが倒壊した長政の最初のお墓の上段部分です、また周囲にはがれきのような石がありこれも一部と思われます。どこにも表示がないのですが、2005年の福岡地震で倒壊したものと思われます。



福岡城の本丸表御門を移築した山門と名島城の唐門

官兵衛の正室 光姫(1553-1627)

このそばに黒田熊之助のお墓もありましたが撮影するのをわすれていました。

熊之助は長政の年の離れた弟です。官兵衛は側室を持たず、光姫は二人の男児を生みます。

熊之助は慶長の役の時に兄に会いに朝鮮に渡ろうとしますが暴風を受け舟が沈没し帰らぬ人となります。もし生きていれば長政を補佐し、直系が絶えた時には藩主を出して血筋をつないだことでしょう。

6代目福岡藩主までは血筋で世襲しますが、それ以降は徳川家や島津家から養嫡子を迎えています。

寿徳寺は新選組局長近藤勇の墓があります、と言ってもJR板橋駅の道向かいの小さな公園のような場所にある境外墓地です。


私が昔住んでいたアパートの裏が寿徳寺でした。JR板橋駅から通勤していましたが、通りがかりに見ると新選組子孫の方々が来られていて式典と法要が行われていました。

左上、近藤勇子孫の宮川清蔵さん、左上二番目。土方歳三子孫の土方陽子さん、その隣のたれ眉のご老人は近藤勇子孫の宮川豊治さん、中央は佐藤彦五郎子孫の佐藤福子さん、その横の夫妻、永倉新八子孫の長倉達郎さん、長倉さんの後ろのメガネの男性も永倉新八子孫の杉村悦郎さん、右端の背の高い人は井上源三郎子孫で井上雅雄さん、右端の方は不明ですが発起人の歴史関係の編集の方(多分)、前列は寿徳寺関係者、


板橋にて斬首された近藤勇は首は京都の三条河原で晒された後は行方はわかりません(愛知県に首塚はある)。胴体は掘り起こし寿徳寺境外JR板橋駅前(東口)に埋葬されたと言う、他にも龍源寺等に墓がある、これは処刑当日に他にも処刑された罪人がいて首が無い為どちらか誤って掘り起こされ埋葬したのかもしれません。

近藤勇の左横には土方歳三も連名で供養されています。


小振りな近藤勇の銅像、幕府に身を捧げ百姓の倅から旗本にとりたてられ最期は大名のようになりました。甲陽鎮撫隊を結成し甲府城に向かうも新政府軍に先を越され甲州勝沼の戦いで敗退します。一旦江戸にもどり再起するものの流山で新政府軍に包囲され投降し、薩摩の有馬藤太に捕縛され連行されます。


処刑は有馬藤太不在の隙に実施されます。斬首したのは横倉喜三次(よこくらきそうじ)で偽官軍の汚名をきせられた相良総三もこの横倉に斬首されています。かなりの剣豪でわざわざ介錯の為に呼ばれてきています。


近藤は捕縛されたときに大久保大和を名乗りますが、因果応報で新政府軍に高台寺党がいたとかで近藤勇であることが発覚します。



埋葬当初の墓石、おそらくこの時点では逆賊扱いの為、目印程度の墓石だったのだろう、どこにもありそうな少し大きい石です。首のない胴体だけ埋めた時の悔しさが伝わってきます。


初期メンバー試衛館グループでは近藤勇斬首、土方歳三戦死、沖田総司病死、永倉新八投降、山南敬介切腹、井上源三郎戦死、藤堂平助暗殺。

境外墓地には分骨された永倉新八の墓もあります、大正まで生きて新選組の顕彰活動に尽力し、新選組の回想録も残しています。新選組の初期のメンバーではただ一人生き残りました。最後まで戦い抜いぬいたのに生き残ったのは,新選組の活動を書き残す使命を与えられたのでしょう。

現代に伝わる時代小説の新選組の元ネタは永倉新八の手記や口伝によるものが多いです。多少の記憶違いはあっても新選組の最高幹部の生々しい証言ですので迫力が違います。


「浪士文久報国記事」は明治八年頃に記憶も確かな回顧録です。無骨ですがことこまかに新選組の結成秘話から書いています。


近藤の大久保大和に土方の内藤隼人、いかにも幕府の忠臣のような名前です。


八木邸 新選組屯所 1862年江戸で清川八郎の献策で浪士組を結成し14代将軍徳川家茂の警護で上洛する。

清川八郎は上洛すると浪士組を天皇直属にして江戸で攘夷を行う宣言をする。

ここで芹沢のグループと近藤のグループは江戸帰還を拒否し京都守護職松平容保のお預かりとして京都に残り新選組として治安維持活動をします。


ここ八木邸は芹沢鴨暗殺の場となりました。

酒に酔い就寝中の芹沢鴨・平山五郎が討たれました。


芹沢鴨(~1863)・平山五郎(1829-1863)の墓

芹沢は初代新選組筆頭局長ですが、どうやら隊をまとめる指導力に欠けていたようです。

悪行の一例は、京都の角屋(すみや)では水口藩から取ったわび証文の返却の際に酒宴となりますが、芹沢が角屋の店員の態度に腹を立てて店を破壊し大暴れしたうえに7日間の営業停止にしました。

大坂では遊郭の吉田屋に乗り込み前日自分の意のままにならなかった芸妓の小寅とお鹿を断髪した。京都の治安維持が職業なのに治安を乱し市民を恐怖に陥れています。

日頃の乱暴狼藉がたたり、会津藩から近藤に芹沢処分の密命がくだります。

会津藩の催した角屋での宴会で泥酔して帰宅した芹沢と平山は近藤グループに寝込みを襲われ非業の死を遂げます。

長州藩が犯人として知らぬ顔で葬儀をすませた近藤や土方はこれより主導権を握ります。


暗殺の際についた刀傷・・


暗殺の際にこのふみ机にあたり転んだ・・




八月十八日の政変1863・9・30⇒池田屋事件1864・7・8⇒禁門の変1864・8・20

新選組は普段から怪しいとにらんでいた古高俊太郎を捕縛し、前川邸で近藤と土方が直々に凄惨な拷問をして自白させる。自白の内容は風の強い日に御所に火をかけて孝明天皇を長州にお連れし、中川の宮を幽閉・松平容保を殺害する。

新選組が手柄を大きくするために話を盛ったとも考えられますが池田屋事件の後には古高の自白と同じような禁門の変がおこり京都は火の海になります。

真田信繁が大坂夏の陣で討たれた地は安居神社だとされています。

近辺には大坂城や真田丸の跡、NHK大阪の敷地内には孝徳天皇大化の改新時代と聖武天皇の難波宮の遺跡があります。ヒストリアや朝ドラが撮影されている真下には7~8世紀の遺跡があり見学もできるというなんとも不思議な空間です。



大坂夏の陣布陣図  天王寺公園 茶臼山

大坂冬の陣では徳川の陣地、夏の陣では真田の陣地になりました。

石碑には、陣跡 茶臼山 冬の陣 徳川家康本陣跡 夏の陣 真田幸村本陣跡と彫られています。

頂上には陣を張るには手頃な場所があります。お椀をかぶせたような形です。


一心寺(いっしんじ)天王寺区にある浄土宗のお寺です。大坂冬の陣・夏の陣では徳川家康の陣が置かれました。



徳川家康が境内の弧松の姿を讃えて贈った坂松山の寺額


八代目團十郎の墓(1823-1854)  実父である七代目團十郎は水野忠邦の天保の改革で奢侈禁止令に触れて江戸所払いとなります。恩赦になりましたが最大の悲劇は息子の八代目が大坂で突然自殺し九代目は弟が継ぎました。浅草寺境内裏手にあるのはこの九代目團十郎の像です。


天保の改革ですが庶民には奢侈禁止令で取り締まるも、大奥は内部から反対されて法令の対象外となるなど本末転倒の悪政でした。


本多忠朝の墓(1582-1615)

本多忠朝は徳川四天王の一角である本田忠勝の次男として生まれます。勇猛な息子で若くして関ケ原の戦いで功をたて早くも大名となる。

スペイン船サン・フランシスコ号が難破したおりは300名あまりも保護し、ドン・ロドリコ日本見聞録に40日の滞在期間中に村の人々が献身的に対応してくれたと記されている。

記録に残るかぎりは武勇にすぐれた好漢なのですが、ただ酒癖が悪く、大坂冬の陣では酒を飲んでいて不覚にも敗退しました。

徳川家康にそれを咎められて夏の陣では毛利勝永軍に突入するも討ち死にしました。

遺言で「死後は酒のために身を誤るものを助けん」と誓ったそうです。現在では酒封じの神として酒に苦しむ人やその家族の多数参拝するところとなりました。


参拝者は300円のシャモジを購入して断酒を祈願して墓碑の壁にかけます。

酒におぼれた人が酒で失敗した人に祈願しても・・・しくじり先生俺みたいになるな!のオファーがきそうです。大河ドラマ真田丸ではこのくだりは全く出てこず残念でした。

三光神社は真田丸が置かれ真田信繁が大坂城から三光神社までの抜け穴を作ったと言われ、現在でも敷地内に岩穴があります。但し実際に真田が掘ったのかは定かではありません。

また付近にはいくつかの横穴がありこちら以外は埋められたそうです、もしそのままにしておけば大坂の陣の貴重な痕跡となった事でしょう。

こちらの像の台座には真田の菩提寺、長谷寺の石が使用されている。と台座に由来が記入されています


人ひとり入れるくらいの小さな穴で鉄格子に鍵が掛けてあり、中に侵入することはできません。真田の家紋・六文銭のレリーフが取り付けてあります。


鉄格子の隙間からカメラのレンズを伸ばして撮ると奥が見えました。すぐ突き当たり左に曲がっているように見えます。下にはお賽銭が投げ入れられています。


戦国の世を渡り歩いた真田一族は徳川と豊臣に分かれて戦い夏の陣で敗れた信繁の血脈も伊達家家臣の片倉家などに伝わりました。


真田信繁は安居神社の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られました。


安居神社本殿

右後ろの松によりかかって休息を取っていました。

武将の銅像は勇ましい姿を描いたものがほとんどですが、この銅像はありのままの最期を伝えようとしていています。誰かがお酒をお供えしていましたが今にも飲みそうです。



心眼寺 真田幸村出丸城跡の石碑。


真田信繁(1567‐1615)

真田親子を祀るために創建された心眼寺ですが徳川幕府に憚り、真田信繁のお墓は建てられないままでした。大坂冬の陣から400年目にあたる2014年、信繁四百回忌に念願の墓碑が建立されました。寺を入ってすぐの場所にあり、「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓(じゅごいのげ さなださえもんのすけとよとみのぶしげのはか)」と記されています。

同じ心眼寺にある時代を超えた幕末の剣士の墓。

京都見廻組隊士

渡邊吉三郎(1841‐1868)

幕臣で鳥羽伏見の戦いで戦死

桂早之助(1841-1868)

小太刀の名人で龍馬を斬った最有力候補、同じく鳥羽伏見の戦いで戦死。


佐々木只三郎配下で剣術の使い手。一般的に見廻組は新選組のような目立つ行動はしないが幕臣で剣術に優れた者が選ばれているので実質的には最強の剣客集団である。

近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎がこれらのメンバーから襲撃されて逃れるのは不可能だと思います。







長谷川等伯は狩野派、狩野永徳に挑み続けました。狩野派と熾烈な争いの最中に天才的な画家である息子久蔵を失いました。


久蔵は長谷川等伯の長男で智積院にある桜図は国宝に指定されている。

智積院の桜楓図のうち桜図は久蔵。楓図の部分は父・長谷川等伯筆


若くして才能を発揮し、狩野派とも共同作業をしていた記録もあり、生きていれば大派閥を形成していたと思われます。


等伯は力強い絵でエネルギーを感じますが、久蔵の絵は繊細で優雅でいて独特の空気感があります。ビビッドな絵といえます。


26歳で夭折しますが狩野派の仕業とも伝えられ、阿部龍太郎氏の時代小説「等伯」では事故を装い狩野派に殺されます。


本法寺の巴の庭 本阿弥光悦作庭


長谷川等伯(1539-1610)

等伯像 能登で生まれた等伯は仏絵師をしていたが上京し狩野派など当時人気の画法を学び秀吉にも認められ狩野派と次第に対立するようになっていく。

安土桃山時代は桃山文化の花盛りで金碧障壁画の絵画が人気で、狩野永徳が時代の寵児であった。

大徳寺天井画等を等伯が請け負い日増しに名声は高まっていくが、永徳は仙洞御所対屋障壁画の受注を取り消させたり、対立は深まる。

狩野永徳が亡くなると秀吉の息子、鶴松の菩提寺祥雲寺(智積院)の障壁画を請け負い長谷川派は最盛期を迎える。

狩野派と並び称されるようになるが息子を事故で失い最大の悲劇が訪れる。


1610年徳川家康に請われ等伯は江戸を目指すも客死する。


仏涅槃図 は本法寺では実物大のレプリカが展示されています。

お釈迦様を久蔵になぞらえて泣き伏しているのは等伯自身かも知れません。

久蔵と等伯の作品は智積院に現存しています。楓図を等伯が描き桜図を久蔵が描き仲良く並んでいます。どちらも国宝に指定されていて並べてみると久蔵の作品の方が芸術性は高く生きていれば狩野派と長谷川派は反対の運命をたどったかもしれません。


1862年に会津藩主松平容保が京都守護職に就任すると金戒光明寺を本陣とする。

幕末、金戒光明寺には会津藩主松平容保が京都守護職として本陣をしいた。

京都守護職のもとには京都所司代、京都町奉行、京都見廻組、新選組が組織されていた。

この中でも池田屋事件の新選組、中岡慎太郎・坂本龍馬暗殺の佐々木只三郎率いる京都見廻組は恐れられた。

大政奉還から鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争では会津は多数の死者を出した。

徳川慶喜が大坂城から江戸へ逃げ帰り、新政府へ恭順を示しても会津は奥羽越列藩同盟の諸藩と戦い続けた。

歴史小説やドラマでは負けたほうを主人公にした作品のほうが面白く、ドラマチックです。




会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑


会津藩殉難者墓地の入り口


会津小鉄の墓、会津藩士ではないが鳥羽伏見の戦いで戦死した会津兵の遺体を葬り遺品を会津若松へ届ける。


箸休めで祇園一力に入る舞妓さん・・


鳥羽伏見の戦いで薩摩軍は御香宮神社に陣をはる。

幕府軍が入京する際に鳥羽街道を通り薩摩軍が発砲して戦闘が始まるが戦闘の準備が整っていない幕府軍は3倍の兵力(15000人)でも劣勢となる。

幕府軍も態勢を立て直し応戦するが3日目に征討将軍の仁和寺宮嘉彰親王が「錦の御旗」をたてて行軍すると新政府軍の士気があがる。

淀藩や津藩が寝返り、退却する行く当てを失った幕府軍は大坂城を目指すがここではなんと徳川慶喜が松平容保らを連れて江戸に逃げ帰る。

総大将が部下を置き去りにし戦う意味すらなくなった幕府軍は不本意な形で戦闘を終結させる。

これが鳥羽伏見の戦いの顛末です。現代に置き換えれば、落ち目の元No1企業がM&Aで社員が反対しているのに新興で勢いのある英国系外資企業に売り渡し、社員が問いただしに行くと社長室から取締役もろとも消えていた。みたいな感じでしょうか。


2010年7月記事の再録です。京都は東福寺(JR東福寺駅、京阪東福寺駅より徒歩すぐ)

の塔頭、即宗院の特別公開に行ってきました、見た目は寺というより昭和初期の民家のようでした、島津氏久の菩提のため創建されて以来、薩摩の厚い庇護をうけました、

西郷隆盛との縁も深く、明治維新で戦死した霊を供養するために東征戦亡の碑を自筆し建立しました。

あの大河ドラマの篤姫も江戸に行く前に7日京都に滞在しそのうちの一日はこちらで過ごしこの火鉢を使ったとか・・丸に十の字の島津家家紋入りです。

西郷隆盛書 東征戦亡の碑

西郷と清水寺の勤王僧月照はここ即宗院の採薪亭で王政復古の策をめぐらした。鳥羽伏見の戦い・会津戦争の戦死者524名を弔うためにこの碑文をしたためました。月照とは薩摩の刑罰、東目送りで錦江湾に入水したものの西郷だけが生き残りました。東目送りは死罪ではないものの、送られた先で殺されるのが通例で、西郷はそれを知っていた。

月照はお尋ね者なので薩摩にとっては厄介です。体が軽い月照が助からず、重い西郷が助かるのもおかしな話で精忠組が関与しているのではないでしょうか。月照は入水する前に殺されて西郷は入水せず助けられ蘇生の家でかくまわれ更に奄美に送られ幕府の目を逃れたのではないでしょうか。


ここには面白い歴史上の人物のお墓があります、人斬り新兵衛や寺田屋事件(騒動)で有馬新七と道連れの道島五郎兵衛等の不本意な形で亡くなった方々です・・・・・・

1862年に島津久光(藩主島津忠義の父)は千名の共を引きつれて京、江戸に上ります、これがまさに珍道中で思っても見ない事件を2度起こします。道中の成果は尊王派の期待を裏切り公武合体を推進します。

伏見の寺田屋での尊攘急進派の精忠組の粛清では奈良原や道島らが鎮撫士として上意打ちを決行しますが、有馬は組み付いた道島をおいごと刺せ!と道連れにします。

道島五郎兵衛の墓(生年不詳~1862)

有馬新七はここには葬られてはいません。有馬の尊王攘夷の夢は寺田屋で潰えました。

島津久光の上京の際に関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を暗殺し久光を巻き込み挙兵させる算段でした。島津久光は倒幕は考えておらずこの時点では公武合体を推し進めるつもりでした。寺田屋に潜伏する有馬達は久光が放った鎮撫使に制圧されます。


有馬新七は有能な人物で孝明天皇の戊午の密勅の写しを土佐・宇和島・福井に伝達したり井伊直弼の暗殺を画策したりしました。


急進派を鎮圧した久光は朝廷から信頼されるようになり久光は政治に介入できるようになりまた。久光はその後江戸に上り、幕府にたいしても存在感を十分にしめしました。


ここから運命的な筋書きになっていきます、帰途、横浜は生麦村でイギリス人の一行が久光の行列に出くわし、一行は馬から降りずに突っ切ろうとします。


奈良原や有村(海江田)がその内の一人チャールズ・レノックス・リチャードソンを殺害してしまいます、寺田屋で急進派を鎮撫に当たった奈良原が江戸からの帰りに生麦事件を起こし、図らずも攘夷を実行し薩英戦争が起き、和解してイギリスと提携し結局藩を上げてしだいに倒幕に向かいます。有馬の執念か怨念が乗り移ったのか・・


薩英戦争はなんと、死傷者の数で見ると薩摩の勝利(人的被害)、物的被害から見ると、英国の勝利、で互角以上に戦っています、奈良原もスイカ売りにばけてイギリス艦に乗船しようとしますが失敗します、これで逆に薩摩と英国はおたがいに認め合い、ウィンウィンのパートナーになっていきます・・・英国の支援を得て薩摩は維新の中心に躍り出ます。

ちなみに生麦事件の有村俊斎の弟(三男)は井伊直弼の首をとった有村次左衛門です・・・・

奈良原喜左衛門の墓(1831~1865)

精忠組は島津斉彬の遺志を受け継ぐ薩摩藩士48人からなる政治団体です。メンバーには西郷・大久保や先の有馬・奈良原が所属していて島津久光も公認していました。精忠組メンバーは久光を擁して幕末の世に躍り出ます。


清水寺の紅葉・・箸休め的な写真です、舞妓さんは本物ではなく貸衣装です。

勤王僧月照は京都の清水寺成就院の住職でしたが安政の大獄で井伊直弼に追われて西郷と薩摩に入る。


田中新兵衛(1832~1863)通称人斬り新兵衛

薩摩の殺し屋で朔平門の変で姉小路公知を暗殺したとして尋問を受け自刃する。

岡田以蔵と組んだ事件もあり伝説の人斬りです。


本間精一郎遭難の碑 阪急河原町駅にほど近い高瀬川沿いにあります。

倒幕を薩摩や土佐に説くも岡田以蔵や田中新兵衛に暗殺されます。幕末の伝説の人斬りが二人もメンバーに加わっている事からある意味凄い人物です。

この住宅には岡田以蔵の刀傷が残されていますが外からは見れなくなっていました。

徳川将軍のお墓は日光東照宮・輪王寺・増上寺・寛永寺・谷中霊園に分散していま。 

 ここ増上寺に眠るのは6人の将軍とその正室・側室・家族達です。 増上寺に眠るのは2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14代家茂公です。残りは寛永寺に6人、最後の将軍慶喜公は谷中霊園に神式で眠られています。初代家康は日光東照宮、3代家光公は家康公のお隣の輪王寺に祀られています。 旧徳川霊廟は惜しくも戦時中に空襲で焼失し、昭和33年には発掘調査の上に現在の場所に改葬されました。


 桜・東京タワー・増上寺の奇跡の1枚。東京タワーはスカイツリーができ主な役割は終えましたが、昭和レトロな建築物で絵になります。


 この日はお釈迦様の誕生日で花まつり(灌仏会)が開催されていました。後方の仏像は誕生仏で右手で天を指さし、左手で地上を指さして、「天上天下唯我独尊」と言っている場面です。 私はこのポーズをまねしてみましたが、50肩で右腕が上がらず断念しました。


前方の花の台座には小ぶりの誕生仏が置かれ、甘茶をかけて参拝します。 甘茶をかけられて気持ちよさそうなお釈迦様・・花は式典後にお持ち帰りができて持ち帰り花風呂を楽しみました。また参拝者には甘茶のサービスもありました。


 徳川家の霊廟に行く途中にある風車とお地蔵様の風景・・風で桜の花びらがお釈迦様の誕生日を祝うかのように降り注いでいました。


 2代秀忠公(1579~1632) 秀忠公はどうしても関ケ原の本戦に遅刻して間に合わなかった事が歴史小説や大河ドラマで取り上げられ暗愚な将軍のイメージがついて回ります。東海道を下る本軍とは別動隊で中山道から進軍し、戦国に名高い真田昌幸・信繁と砥石城や上田城で戦います。 10倍以上の兵力を持ちながら奇襲作戦にまんまとはまります。その後関ケ原を目指しますが悪天候でこれまた遅れて間に合わず、次期将軍としての資質を問われるまでになります。 ただ家康が秀忠を将軍にしたのは、武勇ではなく人柄であったと思われます。 長男 松平信康(正妻の子)は内通したとして信長に咎められ自刃 次男 秀康(奥女中の子)は秀吉の養子から結城氏の養子へ  三男 秀忠(側室の子)は家康のあとを継ぎ発展・存続させる 四男 忠吉(同じ側室の子)は武勇にすぐれ関ケ原の戦いで功績をあげるも若くして死去 以上、家康の後継者候補は数奇な運命をたどります。結果的に秀忠が比較的長生きして徳川家の長期政権をゆるぎないものにした事は家康の目に狂いはありませんでした。


 6代 家宣公(1662~1712) 甲府藩主の徳川綱重の長男ですが女中の子(長昌院)であったが為に家臣の家に預けられていました。このまま日陰の人生を送るはずだった家宣に転機が訪れたのは男の子に恵まれなかった綱重に後継者として迎えられてからでした。 4代家綱が重体となり5代将軍の候補にもなりましたが綱吉に奪われました。 ここでまた幸運が巡って来て綱吉も男子ができずに家宣は綱吉の養子となりました。在籍中は綱吉の側近の柳沢吉保の辞職後に新井白石や間部詮房を登用している。


 7代 家継公(1709~1716) 徳川家宣の四男、家宣の子はことごとく早世し残されたのは家継だけだった。さすがにこの年齢で政務をとるのは不可能で先の新井白石や間部詮房が主導した。 徳川家のスキャンダル江島生島事件は家継の将軍在籍中に起こり、家宣の正妻天英院が側室で家継の生母である月光院を追い詰める醜い争いとなりました。 江島生島事件 江島は月光院(家継の生母で家宣の側室)の代参で家宣の墓参りに行き、帰りに歌舞伎を見て役者を茶屋に招いて宴会をし大奥の門限に遅れた。評定所が審理する事になり、結果生島は遠島、芝居小屋は廃座、江島は高遠藩預かり、その他多数の処罰者を出しました。 


 9代 家重公(1712~1761) 紀州藩 徳川吉宗の嫡男、言語が不明瞭で障害があったが吉宗の後見で征夷大将軍となる 


 12代 家慶公(1793~1853) 1853年と言えばペリーが浦賀にやってきた年で、幕末の動乱には直接介入していないが、薩摩のお由羅騒動に介入して島津斉興を隠居させて島津斉彬を当主に引き立てている。 家慶の時代は水野忠邦を重用し天保の改革・蛮社の獄を断行している。 水野の改革で浮世絵も少なからず影響を受け1843~1847年の間は浮世絵の検閲が極め印から名主印に変更され年代が特定できます。役者絵や遊女の錦絵も禁止されます。 家慶の後継争いが熾烈になり南紀派・一橋派に分かれて抗争を繰り広げた。この時点では薩摩の島津斉彬は公武合体をもくろみ倒幕は考えていなかった。 阿部正弘は開明的な政治家で外様でも庶民でも意見を取り入れました。


 14代 家茂公(1846~1866) 井伊直弼や南紀派の支持を受けて14代征夷大将軍になりました。井伊直弼が有村次左衛門や水戸藩士に桜田門外で暗殺された後に形勢は逆転します。幕府は皇女和宮の降嫁を打開策とし、公武合体策に転換していきます。 1863年上洛した家茂は攘夷を確約させられます。第一次長州征伐を敢行し勝利し、更に第二次長州征伐の戦争中に大坂城で病死した。20歳という若さで病没し、更には追いかけるように孝明天皇までもが病死する。 阿部正弘、島津斉彬、徳川家茂、孝明天皇、皆大事な局面で亡くなっています。このうち何人かは対立するグループから毒殺されたのではないかと思います。


 皇女和宮(1846~1877) 宝塔は青銅製で菊の御紋が刻まれています。歴代将軍の墓に比べてもかなり立派です 和宮様の降嫁は幕府から見れば公武合体の切り札で、孝明天皇から見たら攘夷の切り札で思惑がずれています。 大河ドラマ篤姫では篤姫が和宮を嫁姑のようにいびります。慣れない武家暮らしですが、和宮は夫の家茂公とは気が会ったようで思いのほか仲良く暮らします。家茂が長州征伐で大坂城に出向く際に西陣織をお土産に頼みました。家茂は大坂城で病で亡くなり江戸へは西陣織が届きました。 ~空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ~ 15代将軍となった慶喜公は形勢を逆転しようと大政奉還しますが、王政復古の大号令というクーデターにあいます。戊辰戦争が開始されで敗北するや大坂城から部下を見捨てて江戸に逃げ寛永寺で謹慎。 江戸城でのツートップとなった篤姫と和宮は天から与えられた歴史的な仕事を開始します。 篤姫は官軍側へ、和宮は朝廷側へそれぞれ徳川家の存続や慶喜の助命を嘆願して勝海舟と西郷隆盛の会談を経て江戸城無血開城という離れ業をやってのけます。 大河ドラマの終わりは明治になり、勝海舟邸で勝と篤姫、和宮で昼食をとりました。篤姫と和宮がどちらも自分がごはんをよそうと譲らず、見かねた勝海舟がおたがいごはんをよそえばよいと進言ししゃもじをもうひとつ渡す。徳川家を存続させるという同じ使命を持ち戦った二人で友情が芽生えていました。和宮は箱根で療養中に亡くなりました。