源平合戦と須磨寺
私が以前門司に住んでいたころ近所には平家滅亡に関する史跡が数多くありました。子供が小さいころ散歩コースには大積天疫神社、通称河童神社があり境内には河童の像が多数鎮座していました。平家が壇ノ浦で敗れた後、海で亡くなった男性は平家蟹になり、女性は河童に身を変えたと言い伝えがあります。
また門司港レトロから海沿いにいけば甲宗八幡宮があり、ここには平清盛の四男、平知盛のお墓があります。知盛のアイコンは碇で、源氏に捕らわれて晒し物になるよりは自害する際に碇を担ぎ入水しました。関門海峡を渡れば耳なし芳一で有名な赤間神宮もあります。
今回は平家が滅亡した壇ノ浦ではなく最終決戦の序章となる一の谷合戦での悲劇をご紹介します。神戸のJR須磨駅より北へ徒歩7分くらいで須磨寺があり、ここには平敦盛の首塚があります。
須磨寺の境内にある一の谷合戦時の一場面、熊谷直実が船に戻ろうとする敵将を見つけて呼び止めるところ。大将首と思しき人物は実は平清盛の甥、平敦盛であった。
須磨寺は一の谷合戦時には源義経の陣地となりました。海側に陣を構えた平家に対して山が海にせまった地形を利用して義経は崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけます。不意を突かれた平家は海へと逃れました。熊谷直実は元は平家の一武将でしたが源氏へ寝返り功をあせっていました。幸か不幸か波打ち際に逃げ遅れた立派な鎧兜を身に着けた若武者に遭遇しました。
「敵に後ろを見せるは卑怯なり。返せ返せ!」と呼びかけるとその若武者はくるりと振り返り一騎打ちを挑みます。百戦錬磨の熊谷直実と高貴な少年では勝負にならずあっというまに組み伏せます、自分の息子程の年齢の美少年で一瞬首を取るのを躊躇します。
「あなたの名前をお聞かせ下さい」と直実が尋ねると逆に「あなたはどなたですか?」と尋ねられ「熊谷直実と申します」と答えます。敦盛は「あなたに名乗るのはよしましょう。あなたにとって私は十分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く打ちなさい!」直実はこの若者を助けたいと思いましたが、後ろには梶原景時らの軍勢が近づいていて助けるのは不可能と判断するや「同じ事なら、直実が手にかけて後のご供養をお約束します」と泣きながら首を打ち取ります。
・・・直実は鎧で首を包もうとすると腰に一本の笛が挿してあるのに気づきます。
今朝平家の陣から聞こえてきた綺麗な音色に源氏の武将は皆感動しました。その笛を吹いていたのはまさにこの若者でした。
熊谷直実作、平敦盛像
平敦盛所持 青葉の笛(右)高麗笛(左)
源義経の陣地であった須磨寺に首と笛を持ち帰った直実は太子堂前の池で首を洗いました。
大きな松の木に腰を掛ける義経が首実検で「平清盛の甥で平敦盛である」と言いこの人物が誰であるか判明しました。享年17歳の敦盛の笛を見て涙を見せない者はおらずながく語り継がれました。
写真上部の松の木・・「義経腰掛の松」 下部の池・・「敦盛首洗いの池」
平敦盛の首塚
平敦盛卿のお首を埋葬す、敦盛卿は首と胴とを別々に埋葬せしものにて胴塚は其討死の場所たる一の谷にあり(説明文より)
一の谷の合戦で敦盛を討ち取った直実は無常を感じて出家して名を蓮生と改める。
赤旗名号(法然上人筆)
敦盛を討った直実は、殺しあわなければならない武士の世に無常を感じ出家します。浄土宗宗祖である法然上人の弟子となり名を蓮生(れんしょう)と改めます。赤旗名号は直実が敦盛の菩提を祈るため、法然上人に平家の赤旗に「南無阿弥陀仏」とかいて頂いたものです。