金戒光明寺~会津藩殉難者墓所~
1862年に会津藩主松平容保が京都守護職に就任すると金戒光明寺を本陣とする。
幕末、金戒光明寺には会津藩主松平容保が京都守護職として本陣をしいた。
京都守護職のもとには京都所司代、京都町奉行、京都見廻組、新選組が組織されていた。
この中でも池田屋事件の新選組、中岡慎太郎・坂本龍馬暗殺の佐々木只三郎率いる京都見廻組は恐れられた。
大政奉還から鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争では会津は多数の死者を出した。
徳川慶喜が大坂城から江戸へ逃げ帰り、新政府へ恭順を示しても会津は奥羽越列藩同盟の諸藩と戦い続けた。
歴史小説やドラマでは負けたほうを主人公にした作品のほうが面白く、ドラマチックです。
会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑
会津藩殉難者墓地の入り口
会津小鉄の墓、会津藩士ではないが鳥羽伏見の戦いで戦死した会津兵の遺体を葬り遺品を会津若松へ届ける。
箸休めで祇園一力に入る舞妓さん・・
鳥羽伏見の戦いで薩摩軍は御香宮神社に陣をはる。
幕府軍が入京する際に鳥羽街道を通り薩摩軍が発砲して戦闘が始まるが戦闘の準備が整っていない幕府軍は3倍の兵力(15000人)でも劣勢となる。
幕府軍も態勢を立て直し応戦するが3日目に征討将軍の仁和寺宮嘉彰親王が「錦の御旗」をたてて行軍すると新政府軍の士気があがる。
淀藩や津藩が寝返り、退却する行く当てを失った幕府軍は大坂城を目指すがここではなんと徳川慶喜が松平容保らを連れて江戸に逃げ帰る。
総大将が部下を置き去りにし戦う意味すらなくなった幕府軍は不本意な形で戦闘を終結させる。
これが鳥羽伏見の戦いの顛末です。現代に置き換えれば、落ち目の元No1企業がM&Aで社員が反対しているのに新興で勢いのある英国系外資企業に売り渡し、社員が問いただしに行くと社長室から取締役もろとも消えていた。みたいな感じでしょうか。
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