本法寺~長谷川等伯の夢~
長谷川等伯は狩野派、狩野永徳に挑み続けました。狩野派と熾烈な争いの最中に天才的な画家である息子久蔵を失いました。
久蔵は長谷川等伯の長男で智積院にある桜図は国宝に指定されている。
智積院の桜楓図のうち桜図は久蔵。楓図の部分は父・長谷川等伯筆
若くして才能を発揮し、狩野派とも共同作業をしていた記録もあり、生きていれば大派閥を形成していたと思われます。
等伯は力強い絵でエネルギーを感じますが、久蔵の絵は繊細で優雅でいて独特の空気感があります。ビビッドな絵といえます。
26歳で夭折しますが狩野派の仕業とも伝えられ、阿部龍太郎氏の時代小説「等伯」では事故を装い狩野派に殺されます。
本法寺の巴の庭 本阿弥光悦作庭
長谷川等伯(1539-1610)
等伯像 能登で生まれた等伯は仏絵師をしていたが上京し狩野派など当時人気の画法を学び秀吉にも認められ狩野派と次第に対立するようになっていく。
安土桃山時代は桃山文化の花盛りで金碧障壁画の絵画が人気で、狩野永徳が時代の寵児であった。
大徳寺天井画等を等伯が請け負い日増しに名声は高まっていくが、永徳は仙洞御所対屋障壁画の受注を取り消させたり、対立は深まる。
狩野永徳が亡くなると秀吉の息子、鶴松の菩提寺祥雲寺(智積院)の障壁画を請け負い長谷川派は最盛期を迎える。
狩野派と並び称されるようになるが息子を事故で失い最大の悲劇が訪れる。
1610年徳川家康に請われ等伯は江戸を目指すも客死する。
仏涅槃図 は本法寺では実物大のレプリカが展示されています。
お釈迦様を久蔵になぞらえて泣き伏しているのは等伯自身かも知れません。
久蔵と等伯の作品は智積院に現存しています。楓図を等伯が描き桜図を久蔵が描き仲良く並んでいます。どちらも国宝に指定されていて並べてみると久蔵の作品の方が芸術性は高く生きていれば狩野派と長谷川派は反対の運命をたどったかもしれません。
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