誓教寺~葛飾北斎の墓~
葛飾北斎(1760-1849)のお墓は台東区元浅草の誓教寺に現存しています。
誓教寺にて富士山の方向を向く北斎さんと記念写真、ここ誓教寺は画狂老人卍墓があります。明治の浮世絵研究の先駆者である飯島虚心の葛飾北斎伝(鈴木重三校注・岩波文庫)を参考に解説します。飯島虚心の本は明治二十六年刊で北斎さんが亡くなってすでに40年は経ち発行されています。当時生存していた北斎さんの縁者・関係者から聞き書きしてますので北斎さんの奇行ばかり目立ちますが大変重要な資料です。写真はお寺の方に許可を取っています。
全体像です、覆い堂で守られていて上部には「北斎翁墓」のプレートがあります。通常は向かって右側面の扉は開いていないのですが開けて見せてもらいました。何があるかと言いますと、北斎さんの辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれています。また左側面には北斎さん・奥さん・娘さんの法名と亡くなった日が彫られています。
葛飾北斎伝によれば
南総院奇誉北斎信士 嘉永二巳酉歳四月十八日
性善院法屋妙授信女 文政十一戌子歳六月五日
浄運妙心信女 文政四年辛丑歳十一月十三日
祠堂金五百疋 白井多知女
ここには阿栄さんではなく別の娘さんが眠っています。先日NHKで宮崎あおい主演で「眩くらら」がありましたがよくできたドラマで葛飾應為(阿栄)の晩年は親戚・縁者をたらいまわしになったあげく行方がわからなくなりました。
正面には「画狂老人卍墓」と大書きしてあり下部の楚石には生家の川村氏が刻まれています。(写真では右下のお供え物で隠れています。)北斎さんは葛飾郡本所割下水で生まれ幼名は川村時太郎です。その後、 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となりそののち、実子に家督を譲り中島家を出ます。
このお墓ですが誰が建てたのかははっきりしていません。亡くなってすぐ建てられたのではなく当初は同寺の仏清墓に父と一緒に葬られていてその後に改葬されたそうです。
この墓を建立したと思われる人物は北斎次男で他家に養子に出した加瀬崎十郎、その娘の白井多知、またはひ孫(崎十郎の孫)の加瀬昶次郎、この墓はいずれにしても北斎さんを誇りに思う子孫が建立したのはまちがいありません。
右横の扉を開けてみた写真です、非常にわかりにくいのですが、辞世の句が書いてあります。ひと魂でゆくきさんじや夏の原、拓本がほしいくらいです。浅草聖天町の長屋で阿栄さんに看取られ亡くなった北斎さんの命日も近く、ここ誓教寺では4月18に北斎忌が開催されます。法要と誓教寺所蔵の北斎さんの作品が公開されるそうですが遠方なのでいけず残念です。
飯島虚心の北斎伝より葬送の様子
翁死に臨み、大息し「天我をして十年の命を長ふせしめば」と言い、暫くして更に天我をして「五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」と言い終りて死す。
実に四月十八日なり。歳九十。浅草の誓教寺に葬る。翁の死するや、門人および旧友等、各出金して、葬式の礼を行いたり。棺槨などは粗製のものなりしが、見送りの人々の中には、鎗、挟み箱など、もたせたる士もありて、凡百人程にて、誓教寺に赴きたり。古来裏店より鎗箱など持たせて、見送りし葬礼はかってこれなきこととて、近隣の者共、大いに羨みたり。また翁が死せし時、門人の他に、柳亭種員、四方梅彦など、最もよく後事を担当し、周旋いたらざるなし。
次回も北斎伝から引用します・・。
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